平泉、みちのくに花開いた浄土文化 平泉一仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群

Cedyna News for Premium Members 6月号より

東北の古都といわれ、季節を問わず多くの観光客が訪れる岩手県平泉町。2011年に世界文化遺産に登録された「平泉ー仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」は、平安時代後期、約100年にわたり発展を続け、日本の自然崇拝思想とも融合しつつ独特の性質を持つものへと展開を遂げた仏教、その中でも特に末法の世が近づくにつれて興隆した阿弥陀如来の極楽浄土信仰を中心とする浄土思想に基づいて、現世における仏国土(浄土)の表現を目的として創造されました。

世界遺産フォトグラファー・三田崇博氏が巡る平泉。世界遺産に登録されている中尊寺や毛越寺はじめ、懸崖造りで名高い達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)など、平安時代の歴史文化が息づく町、貴重な歴史的財産・雄大な名勝を訪ねました。

奥州藤原氏のめざした
理想郷

“月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり”の序文でおなじみの『おくのほそ道』は、俳聖・松尾芭蕉の数ある紀行文の中でも、代表作といえるだろう。旅のルートは、奥州・北陸の名所や旧跡を巡り、大垣に至るまで。そのクライマックスの一つとされているのが、平泉の場面だ。

12世紀のみちのくに仏教文化を花開かせた平泉は、奥州藤原氏のめざした理想郷。この世に浄土(死後の平安な世界)をつくり出そうと、三代にわたって力を尽くし、栄華をきわめた。しかし源義経を匿(かくま)ったことで、その兄・頼朝によって攻め滅ぼされた、悲劇の都でもある。

芭蕉にとっては、崇拝した歌人・西行法師ゆかりの地として、特別な思い入れがあったのではないだろうか。名句『夏草や兵どもが夢の跡』は、西行と親交の深かった奥州藤原氏と、義経の最後を憂えて詠まれたものだ。私も俳聖にならい、平泉の栄枯盛衰を写し撮ることを心がけた。

平泉繁栄の象徴
中尊寺

中尊寺金色堂を守る覆堂(おおいどう)

中尊寺金色堂を守る覆堂(おおいどう)

初代・藤原清衡(きよひら)が造営に力を注いだ中尊寺も、『おくのほそ道』の名シーンの舞台。文献によると“寺塔は40余・禅坊は300余”と記されているというのだから、その規模の巨大さに驚かされる。一つの山が、丸ごと寺の境内なのだ。

杉並木の表参道を行くと、義経と弁慶の像が祀られた冒頭の写真にある弁慶堂が見えてくる。古くは愛宕堂(あたごどう)と称していたが、義経・弁慶の木像を祀ったことから、今は弁慶堂と親しまれている。人々に愛された、悲運の英雄・義経と、忠義の士・弁慶。薙刀(なぎなた)を手にした木像はなかなかの迫力で、今なお主君を守っているのだろう。

ゆるゆると登り続けて、本堂で合掌して一礼。読経の声に、しばし耳を傾ける。また、文化財3,000点あまりを収蔵する宝物館・讃衡蔵(さんこうぞう)では、展示品の見事さに目をみはる。貴重な国宝や重要文化財が並び、奥州藤原氏の浄土信仰の深さに圧倒される思いだ。

そして向かうは最大の見どころ、金色堂。風雨雪から守るための覆堂(おおいどう)に入ると、絢爛たる輝きが待っていた。全面に金箔を押した、極楽浄土を表すお堂。創建当初の姿を見ることができる、唯一の建造物だ。螺鈿(らでん)細工や透かし彫り金具、漆蒔絵と、平安時代後期の工芸技術が結集した装飾は、そのまま一つの美術工芸品といえるだろう。仏様の座す台(須弥壇(しゅみだん))の中には、奥州藤原氏親子四代が安置されている。外の覆堂は、彼らの眠りをも守っているのかもしれない。

松尾芭蕉像

松尾芭蕉像

撮影禁止のため紹介できないのは残念だが、ぜひご自身で見ていただきたいと思うほど素晴らしいものだ。
芭蕉が訪れた時は、朽ちかけているのを覆堂で保っている状態だったらしい。それでも、わずかに残る金色に在りし日の面影を見たのだろう。『五月雨の降り残してや光堂』の句では、諸行無常の時の流れをしのびつつ、放つ光をうたいあげている。

実は近くに「おくのほそ道300年」を記念して建てられた、旅装姿の松尾芭蕉像があり記念写真のスポットとして人気が高い。その表情は、どこかもの憂げで「光堂は、今もかつての栄華を伝えていますよ」と、教えたくなった。

中尊寺経蔵(きょうぞう)

中尊寺経蔵(きょうぞう)

奥の方には、中尊寺経として知られる経典を納めるために建てられた経蔵(きょうぞう)が丈高い木々に囲まれてひっそりと佇んでいる。
清衡によって奉納された、国宝『紺紙金銀字交書一切経』をはじめとする写経群を納めていた。こちらは金色堂と対照的に、風雨雪で彩色などが剥がれ落ちてしまっているが、その分歴史の重みを感じるスポットでもある。中尊寺の社殿巡りは、時をさかのぼる旅のように思える。

歴史と自然にいだかれて

達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)

達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)

名所は、他にもいろいろある。開山1200年といわれる逹谷西光寺(たっこくせいこうじ)も、その一つ。
神仏習合の鳥居をくぐると、けわしい断崖が続き、くい込むような形で達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)が建っている。坂上田村麻呂が、戦に勝ったお礼に108体の毘沙門天を祀ったのが始まりとされる、朱が鮮やかなお堂。みちのく随一の霊場として名高く、たしかにミステリアスな雰囲気が漂っている。

岩面大佛

岩面大佛

また左隣の岩壁には、巨大な仏像が刻まれていることでも有名だ。胸から下が崩落したため、岩面大佛と呼ばれている。
源義家が、後三年の役の犠牲者供養のために彫りつけたと伝わるこの仏は、以来みちのくの多くの戦乱による犠牲者の供養をはたしてきたのかもしれない。

天然記念物 厳美渓(げんびけい)

天然記念物 厳美渓(げんびけい)

達谷窟から少々足を延ばすと、悠久の渓谷美を誇る厳美渓(げんびけい)に至る。奇岩やおう穴(川に削られて生じた円形の穴)を見つけたかと思えば、滝に行き合い、深淵に出合う。磐井川(いわいがわ)の浸食により悠久の時をかけて形成された渓谷、ダイナミックな景観が約2kmにわたって続く。自然だけが生み出せる奇跡の風景が訪れる人々を魅了する、国の天然記念物、あの伊達政宗も自慢の名勝だ。次々に変わる表情に魅了され、シャッターを切る手が止まらない。

郭公屋「かっこうだんご」

郭公屋「かっこうだんご」

郭公屋「かっこうだんご」

ここで大人気なのが、空飛ぶ団子こと「かっこうだんご」。カゴにお金を入れて木づちで板を鳴らすと、渓流を挟んだ向かいの郭公屋(かっこうや)から、引き上げたカゴにだんごとお茶が入って勢いよく降りてくる。
お茶がこぼれないのに拍手!名人芸とだんごの美味さと、そして絶景を味わうティータイムが楽しい。だんごの種類はあんこ、ごま、みたらしの3種類。

今も息づく浄土への志

毛越寺(もうつうじ)の大泉が池 池中立石

毛越寺(もうつうじ)の大泉が池 池中立石

自然美の次は、人の手になる庭園美を堪能しに毛越寺(もうつうじ)へ。
二代・藤原基衡(もとひら)が造営したこの寺院は、最盛期には中尊寺をしのぐ規模となり、日本を代表する浄土庭園が広がっていたという。
再現された景観は、玉石が敷かれた州浜あり、枯山水風の築山あり、立石がシンボルの出島あり。平安時代の作庭様式をそのまま残し、タイムスリップしたかのようだ。辺りは静けさに満ち、水面から木々へとやわらかく通る風が、心を安らぎへと導いてくれる。

春に開催される「曲水の宴」

春に開催される「曲水の宴」

海岸の美しさを表している、大泉が池の端をなぞるように歩く。
このエリアは、季節になると約3万株の花菖蒲が咲き誇る。毎年開催される「あやめまつり」では、延年の舞、写生大会などのイベントもあるらしい。

また、ゆるやかに蛇行しながら自然の小川のように流れる遣水(やりみず)は、平安時代の遺構としては唯一の貴重なもので、造園時そのままの風情は趣き深い。この水路を舞台に催されるのが、平安時代の優雅な歌遊びを再現する「曲水の宴」だ。十二単衣や狩衣(かりぎぬ)などの当時の装束に身を包み、遣水に酒盃をまわし和歌を詠みあう。基衡も、こうして遊んだのかもしれないと思うと、ますます感慨深い。

奥州藤原氏の滅亡後、平泉は衰退の一途を辿る。寺院の建物の多くも焼失し、屋敷や庭園は田野になってしまう。しかし人々は遺跡を守り、お能や舞などの芸能も伝え続けた。平泉の文化遺産は過去のものではなく、現代にも、そして未来へも受け継がれていく。芭蕉の見出した光が、今は輝きを取り戻したように─。

秋装束の大泉が池

秋装束の大泉が池

今回登場した作品

俳諧「おくのほそ道」

旅を愛し、旅に没した松尾芭蕉は、その生涯で多くの俳諧紀行文を綴っている。中でも有名なのが『おくのほそ道』。門人の曽良(そら)を伴い、江戸から東北・北陸を巡り、岐阜の大垣に至るまでの旅路を、句作をまじえて記したものだ。俳諧を芸術の域に押し上げたことから、俳聖と尊ばれる芭蕉の渾身の一作。日本の古典における紀行作品の代表的存在でもある。