白川郷・五箇山の合掌造り集落

Cedyna News for Premium Members 2月号より

明治・大正・昭和と激動の時代に操業を続けてきた富岡製糸場。和洋技術を混交した工場建築の代表として、2005年には国の史跡に、2006年には創業当初期の建造物が重要文化財に指定、そのうち3棟は2014年に国宝に指定され、同年世界遺産に登録されました。国の威信をかけて建設した近代製糸工場には、全国各地から集められた志の高い工女の働きを垣間見ることができるそうです。

世界遺産フォトグラファー・三田崇博氏と旅する「日本の世界遺産、その舞台を訪ねて」。冬晴れの澄み渡る空気の中を歩いた富岡は、近代日本を支えた女性たちの生活に想いを馳せる旅となりました。

開国直後、日本の力となった生糸

古来、養蚕・製糸業が盛んだった日本。江戸時代の終わりから開国直後には生糸が主要な輸出品となった。そんな重要な商品に粗悪なものが出回り、生産量と品質を上げるために政府が計画・建設したのが、2014年に世界遺産登録された富岡製糸場だ。群馬県富岡周辺は古くから養蚕業が盛んで、輸出港である横浜にも比較的近いことからこの地が選ばれたともいわれる。

操業開始の1872年、つまり明治5年は新橋~横浜間を結ぶ日本初の鉄道が開通した年でもある。こののち鉄道網は全国に広がり、明治維新後わずかな時を経て、人々の暮らし、産業は大きく変わっていった。
富岡製糸場では、それまでのように繭から生糸を取り出し手動で巻き取るのではなく、フランス製の蒸気機関を利用した器械製糸を導入した。場内には300釜もの器械が設置され、生産量の大幅アップが図られたのだ。当時、ヨーロッパの主要な生糸生産国であったフランスやイタリアの工場が150釜程度の規模であったことからも、近代日本がいかに製糸業に力を入れていたかがわかる。

「からっ風」とも呼ばれるこの地特有の冷たい強風が吹きつける中、その姿を写真に収めるべく、私は富岡に赴いた。
冒頭の写真は、富岡製糸場内に残る群馬を代表する山の名が付けられた「妙義寮」と「浅間寮」という工女の寄宿舎を撮影したものだ。

世界に誇るレンガ造りの製糸場

世界に誇るレンガ造りの製糸場

当時の世界基準の2倍もの器械を導入し、大規模に開業した富岡製糸場だが、器械を使う人がいなければ始まらない。そこで活躍したのが女性たちである。
富岡製糸場設立には、全国から集めた工女の器械製糸技術の習得、さらにはその最新技術を各地に伝える人材を育てるという目的もあった。指導に当たったのは技術導入国であるフランスの技術者だ。

フランス人技術者の宿舎

フランス人技術者の宿舎

しかし西洋人に対する恐怖や根拠のない噂があった当時、なかなか人が集まらなかったことは作家・植松三十里(みどり)による小説『繭と絆 富岡製糸場ものがたり』にも描かれている。製糸場の初代場長である尾高惇忠(じゅんちゅう)は、自身の娘を工女第1号にし、各地に工女を募って回った。惇忠は、製糸場設立にも関わり2021年の大河ドラマの主人公である実業家・渋沢栄一の従兄弟にあたる。

地方から集められた工女たちが製糸場を初めて見た時の驚きは相当なものだっただろうと、現地を訪れて感じた。まずはその外観だ。当時の日本に全長100メートルを超えるレンガ造りの建物などほとんどなく、その姿に圧倒されたに違いない。とはいえ、レンガの壁に屋根は瓦葺き、柱や梁は木造の和洋折衷の姿は、どこかほっとさせてくれる。フランス人の設計のもと、主な資材は富岡周辺で調達、レンガも指導を受けて近隣の瓦職人が焼いたという。レンガは長手と小口を交互に積むフランス(フランドル)積みになっており、フランスからの技術ということがわかる。

繰糸所内部

繰糸所内部

そして工女たちが作業をした繰糸所(そうしじょ)内部に入ると、中央に柱がない大空間が広がる。日本にはまだなかった西洋式のトラス構造を導入し実現したものだ。見上げると三角形の骨組みが屋根を支えている。この構造で屋根の重みを分散し、柱の間隔を大きくとることができる。天井が高く、壁には大きなガラス窓が並ぶ。大きなガラス窓から入る光が室内を明るく照らす。当時は電灯などもちろんなく、蜘蛛の糸のように細い生糸を繰(く)るためのあかり取りだ。まだガラスが珍しく、縁側で糸を繰っていた少女たちにとって、その広さ、明るさも衝撃だっただろう。300釜もの器械がシンメトリーに並ぶ明るい所内には、凛とした美しさが感じられる。

繰糸所は1987年まで操業し、現在は1966~1980年頃にかけて設置された器械が操業時のまま並ぶ。

国宝・西置繭所(にしおきまゆじょ)

国宝・西置繭所(にしおきまゆじょ)

置繭所のレンガ壁

置繭所のレンガ壁

2020年10月に、新たにグランドオープンした国宝・西置繭所。2階を繭の貯蔵庫として使用していたそうだ。レンガ壁は、焼成温度が低かったことから、オレンジ色をしているという。

先進の労働環境と人材育成

先進の労働環境と人材育成

指導者を育成する目的を持った富岡製糸場では、工女の待遇も画期的だった。敷地内には診療所もあり、食事はもちろん治療費や薬代も工場負担という好待遇。週7日のうち6日就労、1日は休日、労働時間は1日8時間以内、技能によって階級分けした能力給と、すでに現在に近い労働体系を採り入れていたそうだ。

製糸技術以外に、読み書きや算術、裁縫などを学ぶこともできた。指導者として、社会人としての活躍を期待され、なみなみならぬ使命感とプライドを持って、仕事に勉強にと日々励んでいたことだろう。共に暮らし、互いに競い合い、技を磨く。そうした中で指導者に成長した工女たちは、新たに建てられる製糸場へと全国各地へ羽ばたいていった。
明治から昭和という激動の時代を縁の下から支えたのが、そんな女性たちだったというのは驚きだ。

豊かな郷土色にふれる

富岡シルクのストール

富岡シルクのストール

富岡製糸場内、東置繭所1階には、展示室やシルクギャラリーなどがあり、シルクギャラリーでは富岡で生産された繭を厳選した品質検査のもとで繰糸し、製品化した「富岡シルク」ブランドの製品が販売されている。

おかって市場

おかって市場

甘楽町(かんらまち)歴史民俗資料館

甘楽町(かんらまち)歴史民俗資料館

製糸場周辺には、養蚕業に関連する古い建物を利用した施設も多い。上信電鉄上州富岡駅近くの「おかって市場」は繭の保管庫をリノベーションをし、地元製品を多数取り揃える。富岡市の隣、甘楽町(かんらまち)にある歴史民俗資料館も1926年に建てられた繭倉庫を利用したもの。この地域で使用された養蚕・製糸・織物に関する道具や資料を見ることができ、古くから女性たちが絹産業を担い、家計を支えたことがうかがえる。

群馬県といえば「かかあ天下」と「からっ風」。さぞ女性が強くて怖いのかと思っていたが、そんな女性たちの凛々しいさまを言ったのだろう。そして地方からこの地に集まった工女たちは、家だけでなく近代日本をも支えたのだ。

おっきりこみ

おっきりこみ

製糸場を後にして、近くで上州名物「おっきりこみ」を食べた。「おっきりこみ」は小麦粉で作った幅広の生麺を、野菜やきのこ、根菜などと一緒に煮込んだ郷土料理。古くから家庭で作られてきた群馬の「おふくろの味」だ。からっ風に吹かれて冷えきった体に染みわたる、ほっとする味だ。

工女たちも味わったのだろうか。もしかしたら賑やかにおしゃべりしながら食べたのかもしれない。その温もりの中に、工女たちが切磋琢磨した青春の日々が染み込んでいるような感じがした。

今回登場した作品

文学 繭と絆 富岡製糸場ものがたり(植松三十里 著)

富岡製糸場の誕生秘話を、史実を交えまとめた小説。初代工場長・尾高惇忠とその娘にして工女第1号となった勇を中心に、家族の絆、工女仲間との絆を描きながら富岡製糸場で奮闘する姿が綴られる。元幕府側であった惇忠が、明治政府が建てた富岡製糸場の場長になる葛藤と覚悟も語られながら、ストーリーが繰り広げられる。