八代海

Cedyna News for Premium Members 6月号より

熊本県から鹿児島県にまたがる八代海は、万葉集に登場する南限の地として知られており、長田王が歌を詠んだ三ヵ所はどこも風光明媚な観光地として有名です。万葉歌人の足跡を辿る旅、写真家・三田崇博氏が最初に訪れたのは神の島といわれる水島です。梅雨時期にはめずらしく青く澄み渡った空と海、まるで三田氏の訪れを歓迎するかのような旅のスタートでした。

国指定名勝となっている神の島「水島」が登場する歌はこちらです。

聞きしごと
まこと貴(たふと)く 奇(くす)しくも
神(かむ)さび居(を)るか
これの水島
(巻三・二四五 長田王=ながたのおおきみ)

噂に聞いていたように
ほんとうに尊く
なんと神々しいことか
この水島は

不知火(しらぬい)海に
浮かぶ水島

九州本島と天草諸島に囲まれた八代(やつしろ)海は別名、不知火海といわれる波穏やかな内海である。不知火は夜、沖合に多数の火のようなものが並ぶ蜃気楼の一種といわれ、ヤマトタケルの父とされる景行(けいこう)天皇の九州巡幸の際にも現れたと『日本書紀』に記されている。
八代海は万葉集に登場する南限の地でもあり、熊本県八代市の水島と芦北町、鹿児島県阿久根市の三ヵ所が長田王によって詠まれている。いずれもカメラに収めたくなる風光明媚なエリアで、今回はこの万葉の故地を巡る旅をしてみたい。

龍神社

霊妙な水島の龍神社。

冒頭の歌にある水島は、八代海に注ぐ球磨(くま)川河口近く、龍神社と肩を寄せ合う小ぢんまりした島だ。
景行天皇がこの地を訪れ、食事を召し上がる際に水がなく、小左(おひだり)という者が神に祈ると、不思議にも水が湧き出てきたといわれるパワースポット。現在は「不知火及び水島」として国指定名勝になっている。景行天皇の足跡を辿った長田王はこの伝説の地を訪ね、神々しさに感極まって歌を詠んだのだろう。
青空と凪(な)いだ海、はるか遠方に霞む天草諸島。青のグラデーションにぽっかり浮かぶ緑濃き神の島は、今ひっそりと佇み、何かを待っているかのようだ。歴史の息づかいが感じられる名所である。

開湯600年の
日奈久(ひなぐ)温泉

日奈久温泉

水島・龍神社からそう遠くない距離には、放浪の俳人・種田山頭火が好んで訪れた日奈久(ひなぐ)温泉がある。
開湯600年という歴史ある温泉地で、明治から昭和の名士たちにも愛された。木造三階建ての旅館が点在し、往時の名残をとどめている。

日奈久の街並み

日奈久の街並み。

熊本県下で最も古い温泉地、狭い道路の両側に家々が軒を連ねた風情ある街並みが続く。

鉄道旅でめざす
万葉故地

肥薩おれんじ鉄道

肥薩おれんじ鉄道。

さて、旅の楽しみ方はいろいろだが、今回の八代海、万葉の旅にぴったりなのが肥薩(ひさつ)おれんじ鉄道だ。
八代駅から海沿いを走り、鹿児島県の川内(せんだい)駅までの116.9kmを往復する。この鉄道には「おれんじ食堂」という列車もあり、レストラン観光列車の先駆けとして知られ、人気を集めている。

車窓からの風景

肥薩おれんじ鉄道で日奈久温泉から万葉二つ目の故地、芦北町田浦の御立岬に向かう。車窓には穏やかな海や豊かな緑がのどかに流れる。

夕景の美しい
御立岬(おたちみさき)

御立岬の砂浜

御立岬の砂浜。

景行天皇が船でおたち(出発)になったことから名付けられたという御立岬。長田王は天皇にあやかり、ここから舟を出したという。

芦北町を詠んだ歌を紹介しよう。

葦北(あしきた)の
野坂の浦ゆ 船出して
水島に行かむ
波立つなゆめ
(巻三・二四六 長田王=ながたのおおきみ)

葦北の
野坂の浦から船出して
水島へ行こう。
波よ、どうぞ立たないでおくれ。

露天風呂から望む八代海

御立岬の露天風呂から望む八代海。

静かに佇む水島と違い、芦北はアクティブなスポットだ。
御立岬は現在は公園になっており、海水浴、テニスのほか、マリンハウスやログハウスでバーベキューなどが楽しめ、八代海の夕景が堪能できる宿や温泉などの施設もある。一日中、ここでのんびり羽を伸ばすのもいい。

夕焼けで赤く染まる御立岬

夕焼けで赤く染まる御立岬。

夕方、海水浴にはまだ早い人影まばらな砂浜を歩く。青く澄んでいた空が赤く染まっていく。刻々と変化する自然の表情は美しくも、あまりに移ろいやすく……。
私は思わずシャッターを切り続けた。

魚(いお)湧く
海の希少な逸品

御立岬から水俣市を越え、さらに南下すると黄金アジで知られる出水(いずみ)に着く。
八代海は阿蘇山、九州山地からの河川水が流れ込み、豊富なプランクトンが発生する恵みの海で、魚介の宝庫となっている。春から夏にかけては、マナガツオやコウイカ、キジハタ、クルマエビ、タコ……。
まさに「魚(いお)湧く海」といわれるだけある。

アジのにぎり

脂ののりがよく旨みが濃い黄金アジのにぎり。

回遊魚であるアジが、この神々に祝福された豊かな八代の海に棲みついてしまったのが出水の黄金アジである。
一本釣りでていねいに水揚げされるブランド魚で、東京などで高級魚として高く取引される。そのため地元にはほとんど出回らないが、提供する店もわずかにある。重(しげ)寿司もその一つで、ネタにこだわり、地の魚を使った料理が評判の名店だ。

黄金アジ

初夏が旬の出水の黄金アジ。

黄金アジは、エサを探して回遊する必要もないため、脂がしっかり尾っぽの方までのっている。身は丸っこく背中の黄色が特徴。甘みが強いので、食べるならやっぱり寿司がいい。とろっとした舌ざわりに、光もの特有の青臭さはない。ねっとり極上だ。八代海が豊穣の海だと実感する。

万葉歌南限の地、
黒之瀬戸

翌日、最終目的地である阿久根市の黒之瀬戸へ向かう。八代海と東シナ海をつなぐ海峡だ。日本三大急潮の一つで、運が良ければ渦潮を見ることができる。
そして、ここが万葉の故地最南端の場所である。

万葉歌碑

黒之瀬戸にかかる黒之瀬戸大橋の袂に建つ万葉歌碑。

隼人の
薩摩の瀬戸を雲居なす
遠くも吾は
今日みつるかも
(巻三・二四八 長田王=ながたのおおきみ)

隼人が住むという
薩摩の瀬戸を、はるか彼方に浮かぶ雲のように
遠くからだが、
今日初めて見ることができた。

黒之瀬戸海峡

黒之瀬戸海峡。

陽光にきらめく潮の流れにしばし足を止める。万葉人が訪れた南の果ての地に立っていると思うととても感慨深い。

穏やかな表情の裏に雄々しい力も秘めた八代海。海に抱かれた豊かな土地、屈託のない空気、万葉人が詠んだ水島・御立岬・黒之瀬戸の美しい景色。そして、そこに垣間見える神々の姿。さまざまな顔を持つ万葉歌南限の地、八代海。
ゆったり時間をかけて、巡ってみてはいかがだろう。